ハル、十才になる

 ハルの毛に白いものが混じり始めた。白色に濃い茶色のブチの体にかわいい耳を垂らした生後二か月の幼いハルが我が家に来てから十年。もうハルがいない生活は考えられなくなっている。このところすっかり僕にくっついて過ごすようになった。ヨメサンが数度入院したりすることもあったせいか、不安になって僕にくっついていると安心できると思ったのかもしれない。家の中でどこに行くにも朝から晩までそばにいようとする。時刻にパンクチュアルで、朝僕の目覚まし時計が鳴る前にベッドのそばに来て「フン、フン」と顔に鼻をこすりつけて起こそうとする。朝ごはんの時間もそうだ。僕が朝、神棚や仏様のお茶を替えたり、拝んだりするのをソファの上で寝そべってじっと眺めていると思ったら、それが終わると自分の食卓の近くに来て正坐をしている。自分の食事の時間が来ているのがわかるのだ。

 僕が仕事をしている時はそばのベッドの上で体を丸めてじっと寝ていると思いきや、部屋を出ようとするとぱっと起き上がって様子をうかがっている。ハルは習慣づいている以上に言葉がある程度わかるのだが、そのため頻繫に話しかけるようにしている。付き合いも上手で、言葉のコミュニケーションの不足を目や鼻の動きや様子でカバーしてくれる。最近は散歩の時も自分の主張を押し通すようになった。自分の行きたい方角でない時は、四つ足を踏ん張って抵抗しようとする。そのくせ人懐っこい。知っている人や優しそうな人を見かけるとすり寄って、後ろ向きに座って「さすってほしい」と背中を差し出すのだ。雨は相変わらず嫌いだ。雨の日はそそくさと用を足すと急いで我が家へ戻ろうとする。そして新緑の頃、雨が上がると外に行きたがり、喜んで道路わきの草木や花のにおいをかいで廻るのである。

特等席

 我が家の北西側のバルコニーにハーブが育ち始めた。時々食材を仕入れるMマルシェに置いてあるいろんな小さなハーブを一つ、二つ買って並べている間に、いつの間にか二十鉢余りになった。このところ、順調に夏を乗り切り秋から冬を迎えるが果たしてこれからどうかな。実は、以前ハルの遊び場用にとバルコニーにプラスティックの屋根を取り付けたせいか、夏はかなり温度が上がる。それでも、日よけを付けたり、バルコニーの腰に使用している小さな無数のひし形の穴の開いたスパンドレルから入る風のおかげで、朝、晩は心地よく過ごせたし、今は一日中快適な空間である。造園の友人に聞いたら、肉厚系のサボテン類なら育つかもとそっけないので、まあそうはいわずにちょっとハーブでも試してみようかと思ったのが思いのほか出来ばえはよかった。

何せ不精な性格なので二日に一回水をやるだけなのだが、けなげにも成長する姿を楽しませてくれている。先週からは南東側のバルコニーに置いていた育ちが今いちのハーブもこちらに参加させることにした。僕がこうやって暇を見つけてはバルコニーのひと時を楽しむときにハルは必ずついてくる。そして僕がちょっと席をはずして戻ってくると、いつも僕の座っていたスツールを占領しているのだ。スツールは他の位置にもおいているのだが、そのスツールの場所からはバルコニーの鉢々とハルとよく似た鉢物の犬の置物、そして背後に通り越しの覆い茂ったマンションの樹々の姿がパノラマのように見えるのだ。ハルめ、特等席を知ってやがる。

お帰りなさい

二か月半余りの腰の骨折手術、リハビリの入院生活を終えてヨメサンが元気に戻ってきた。彼女がこんなに長く留守にしたのは久しぶりだ。ハルは果たしてどのように行動するだろうか。思えば、ハルがまだ1歳で小さなパピーだった頃、三か月のフランス滞在を終えヨメサンが帰国すると、ハルは跳ね、飛び上がり抱きついたものだった。それはまるで以前見た映画の一シーンのようであった。九歳を過ぎた今度はどうするだろう。大きな体で飛びついて、相手に尻もちでもつかせないといいのだが。

玄関に我々が戻ってくるとハルの気忙しい足音が聞こえた。例によって、留守にするときは上階の居間の入り口に柵をしている。その柵の向こうで尻尾を大きく振り、鼻を突き出して目を見据えているではないか。居間に入ると、うれしさを抑えきれないのか、突然「フユッ」と叫んで駆け出し、顔面を振り振り弾みをつけて戻ってきた。耳は気持ちいい時の特徴である後ろに倒れ、体は伸びきっている。ヨメサンに近づくと、尻尾を左右に大きく振り、差し出した手を確認するようにかぎ、なめ始めた。そして、何回か行ったり来たりを繰り返し、感情を抑えるかのようなしぐさと鳴き声をする。

ハルの楽しくてたまらない様子がこちらにも手に取るように分かる。大人になったからか、ヨメサンの体を思ってなのか、それなりの喜びを表現する気づかい屋のハルを見て僕もうれしくなった。

至福のベンチ

J大通りから入った幅4mの小道、通る車もほとんどない静かな住宅地区、ハルはこんな場所を散歩するのが好きなようである。そんな通りの一角に時折訪れる小さな公園がある。公園といっても、5~60㎡程度もあろうか、真ん中に小さな滑り台があり、三人掛けの木製ベンチがⅬの字に二台置かれただけのこじんまりしたミニ公園が大型マンションの駐車場敷地のそばに存在している。滑り台の周りは土の状態であるが、周囲は芝生が髭のように伸びており、芝生が先か、土が先かは定かではないけれども、土の状態から緑へのそのあいまいな移り変わりが美的である。ほとんど手入れ不要の公園なのだ。そして、ほとんどあまり利用していないのであろうか、木製のベンチには、背後から座った時肩にもたれかかるかのようにピンクの小さな花をつけた名も知れぬ雑木の枝が覆いかぶさり、朝日の輝きを浴びて座る人に至福の安らぎを与えるかのように見える。背丈ほどの雑木に囲まれたこのミニ空間の周りは静けさだけに包まれていた。

普段は、週末の朝しか訪れないこの場所に、あるウィーク・デイの夕方近く散歩コースを迂回して立ち寄ってみた。すると、このミニスペースが台車に乗せられて遊びに来た保育園の幼児たちでにぎやかではないか。ベンチ以外これと言って何もないこの自然的なスペースが子供たちにとっての憩いの場所だなんて、想像もしていなかった。年配にも、小さな子たちにもコミュニティの一角にこのような小さな安らぐ場があることは日常の生活の中でほっとさせるものである。天気の良い週末の朝の散歩の帰路には、この場所に立ち寄るのを楽しみにしている。

ハルとの日々

ハルがこのところ僕について回っている。しばらくヨメサンが不在のため、寂しいのであろうか。以前ヨメサンが三か月ほど留守にしたときは、帰宅時飛びつくように喜んだものだが、今回はハルの年齢もいってきているので、前と同様に行動するであろうか。いづれにしても、今は一日中僕のそばを離れない。昼間は居間、食堂やアトリエのベッドカバーの上で目を細めながら横になり僕を眺めている。僕がトイレやお茶、お風呂など短時間離れても、いつの間にか近くまで来て座り込んでいる。置き去りにされると心配しているのだろうか。一人で寝かしつけているので、夜は居間で寝ているはずのハルだが、朝僕が目を覚ますとベッドのわきに来て寝そべっているのだ。

 秋近し、週末の晴れた早朝、いつものようにハルと散歩に出た。少しはハルの気晴らしにと久しぶりにJ緑地の上の公園に行ってみた。先日の台風の影響で緑地の中は木々の枝や葉が散らかり、階段の上に覆いかぶさっている。最初はもたついていたハルだがそのうち横たわる大きな枝をひょいと乗り越えて駆け上がっていく。野生の姿に元気づけられたように動き回っていた。最近は言葉もだいぶ覚えたようだ。「上に行くよ」、「ご飯だよ、おいで」、「まだだよ」、「散歩に行こうか」などは朝飯前だ。できるだけ話しかけるようにしているのだが賢いな。朝起床して散歩に行くまでの僕の行動パターンをハルは自分の頭にインプットしているのか、それが終わるまでは居間の定位置のクッションの上で座って待っていたハルが、僕のそれが終わりお茶を飲みくつろいでいると、そばまで寄ってきて散歩の催促に鼻をこすり付けてくる。「もうちょっと待ってね」と互いに交渉しながらその日の朝の日程が始まる。

ハルの表情

ハルは表情豊かな犬だ。朝、最初に会うと尻尾を振り、普段は立てている耳を後ろに寝かせ、目を細めてうれしそうにおはようの挨拶をする。頭を撫でてあげようとする時に両耳を寝かせようとするのと同じ表現だ。その耳が散歩を始めるときりりと立つ。そして、いつもと違う音や犬の声がする方向に向けて百八十度以上回転するのだ。人が耳に手を広げて当て、音を集中して聞こうとするあの表現と同じようにも見える。鼻先もかすかな臭いがする方向に向けてクンクンと動かせ、地面すれすれに数ミリの近くまで近寄せて、鼻がすりむけるのではないかと心配するぐらいかいで回るのも特技の一つだ。

 表情の中でもその眼はダントツに表現豊かである。ハルに食事を与えた後、こちらも食事をとろうとすると、すーっと近寄ってきて、まるで「まだ自分は食べてないよ」と言いたげな目つきをする。「君はもう済んだよね」というと、首を傾げたりするのだ。時間にパンクチュアルなハルは散歩の帰りが少し遅くなり夜になって食事を与えたりすることになると、目が鋭く青くなり「おなかがすいているんだよ」と訴える。

 時々にらめっこの遊びをやる。犬は瞬きをあまりしないので、こちらも我慢をして目をそらさないでじっと見ていると、そのうちきまりが悪いのか横へ目をそらすのである。「目は口ほどに物を言う」とはまさに犬の眼の事ではないか。もう一つ、いつもよく居眠りをしているハルが、起き上がると背伸びをして大きなあくびをする。たいくつなのかなと思っていたら、緊張をほぐす動機もあるようだ。それにしても、立派な五感を持った生き物である。

ハルと家族

 ハルが我が家へ来てから九年。ハルを含め子供たちも皆大人になった。子供が生まれる前や小さい時に犬を飼うと、子供の成育上役に立つとはよく言われるが、ハルと付き合っているとつくづくそれがわかる気がする。

ハルは家族の一員である。普段の昼は僕とヨメサンの大人二人だけなので、ハルはいずれかといつも一緒にいる。僕はアトリエで過ごす時間が多いので、どちらかというと食堂や居間でヨメサンと過ごす時間が多いハルだ。別にかまってやらなくても、ハルの視界の届く範囲で安心してゆったりと寝転がっている。でも、ハルがべったりくっついて寝そべっているとき上がっていくと、すくっと顔を持ち上げ何もないよという顔つきをする。

 それが朝や夕方の散歩の前になると、体内時計が知らせるのかむっくり起き上がり背伸びをして、玄関口へ降りる階段のところでうずくまって待っている。待ちきれないときは階下のアトリエまで降りてくる。散歩の時間の催促だ。その時間帯ではなくても、ヨメサンが出かける支度を始めると、自分も一緒に行こうとしているのか、くっついて歩き回っている。そして自分が留守番役だと分かれば、必ず僕のところへ来るのだ。 

 夜、上の娘が仕事から帰宅すると、それからは彼女の番だ。食卓の娘の膝の上にちょこんと乗り、しばらく動かない。今度は僕と目を合わせても、つんと澄まして動じない。家に出たり入ったりする下の娘にはちょっと遠慮がちか、気が弱そうにふるまっている。

たまに皆が食堂に集まった時など、みんなに公平に接しようとしているのか、少し離れたところできちんとおすわりをして、自分に声がかかるのを待っている。「おいで」と呼ぶと、尻尾を振りながらみんなの周りをくるくる回ってさすってもらっている。なにしろ、甘えん坊で気配り役のハルでもある。

ハルの思い

ある本によれば、犬は五百語くらい覚えるという。ハルとのコミュニケーションはどれくらいできているだろうか。朝起きて初めてハルと会う時、「おはよう」と声をかけると、「ウォ、ウォ―ン」といって尻尾を振ってくる。「クシュ、クシュ」と、くしゃみらしきものもする。うれしいのかな。「おはよう、散歩に行こうよ」と言っているのか。

散歩途中に顔を上げて僕を見つめることがある。「こちらの方向へ行こうよ」か「もっと早く歩こうよ」か。歩くのをやめ、リードを引っ張るときは「もう少し、草むらをかがせてよ」らしい。散歩から帰って朝ごはんの前は足を揃えて僕の歩く先をじっと見つめている。「いつ、ご飯が出るのかな」。

「おいしい、ゆっくりお食べ」と背中を撫でてあげても飲み込むように早く食べ、こちらが朝食を始めるとそばに来てまたじっと見つめる。「フン、フン」と言って鼻を僕の手元にこすりつけてくるときもある。「いい匂いだね」「もっと欲しいよ」かな。ハルが大腸をこわして以来用心して量を制限していたが、説明書を読み間違えて一回分の量が少し少なすぎた。「ごめんね、もう少し増やすからね」。

 バルコニーが好きなハルが外に出たいとき、何度もガラス戸と僕の間を往復して知らせてくれる。「今の時間は暑いから夕方まで待とうよ」。夕方の散歩のときカフェの前を通りかかると立ち止まり目を上げて「今日は寄っていかないの?」という仕草をする。上の娘が帰宅すると、「ワン、ワン」と一度吠えて娘の姿を見に走っていき、また元くつろいでいた位置に戻ってくる。「お帰り」の挨拶なのか。

 果たしてハルの思いはどれくらいこちらに伝わっているのか、こちらの意図はどこまでハルに理解されているのだろうか。

アトリエのハル

 

ハルが僕のアトリエを訪れる理由は二つに限られる。一つ目は、外が突然暗くなり、稲妻が光り、一呼吸おいてゴロゴロと雷が鳴り響くあの時だ。それまで上階にある居間のあちこちで気持ちよさそうに横になっていたハルであるが、急に身震いをはじめ自分の家(ウチ)に 閉じこもる。それでも音が長く続くようであると、こそこそと階下の僕のアトリエに「助けて」と降りてくるのだ。実をいうと、人間の僕も広く背の高い居間の空間であの音を聞くのは苦手だ。何となく頼りになる狭い空間を欲しくなるものだ。そんな時ハルを怖がらせてはいけない。「よく来たね。もうすぐ去っていくから、ここで待っていたらいいよ」と声をかけてあげる。そうすると、カーペットやベッドの上で丸くなり、足を縮めて尻尾を隠し直径四十㎝位の大きさの円形姿勢で時が過ぎ去るのをじっと我慢をして待っている。

 もう一つは、皆出かけてしまって家に僕しかいない時だ。はじめはひとりで平気なようが、時間がたつとのこのこ僕を訪ねてアトリエに降りてくる。犬は人間のそばにいるのを好む習性だがハルは典型的かもしれない。アトリエで、ショパンのピアノやバッハのバイオリンの曲が静かに流れているそばで、安心して足を伸ばして横になっている。この時は一m以上の長さになるようだ。時々目を開け、夕方の散歩はまだかとこちらの様子をうかがっている気配がみえる。ひとりで居間にいるようにさせている場合、定刻近くになってくると「ワンワン」と散歩の催促の声に悩まされるのでこちらの方が都合がいい時もある。 

ハルの記憶力

 町中の時折ハルと立ち寄っていたカフェに、およそ一年ぶりに行ってみた。ハルは果たして覚えているだろうか。テラス席の椅子に腰かけるとすぐにしゃがみこんだ。顔見知りの店のスタッフさんが近寄ってくると、ハルは中腰で尻尾を振り振り、さっそく背中を後ろに向け、さすってもらう姿勢をとった。かわいがってもらったのをちゃんと覚えているのだ。犬の記憶力はどの程度あるのだろうか。ハルがまだ一才の時、三か月近くフランス行きで我が家を留守にしていたヨメサンが戻ってきたとき、飛びつくようにはねて喜んでいたハルの姿を思い出す。二~三才の遊び盛りの頃、近隣の休日の広い駐車場で犬仲間の飼い主さんたちと自然に集まり、当時若いハルたちが思いっきり駆けずり回っていた思い出が今でも残っているのだろうか、散歩道で再会するとお互い仲良く鼻をかぎあっている。お互い年を取ってきているせいかあまり飛び跳ねはしないのだが。中には、会ってもフンと素知らぬ顔を互いに見せる犬同志もいる。移り気の中年なのかな?

ハルにとっては苦い思い出もあるのか、まだ幼いトイプードルとじゃれあって馬乗りになれそうになり、その時引っかかれそうになった記憶があるのだろう。僕には今でも数多いるトイ・プードルの違いも定かではないのだが、ハルはいまだにそのワンちゃんと出会うとリードを引っ張り遠回りを要求するなど、飼い主たちのほほえみを誘っている。どこでどうやって、好き嫌いの区別を付けたりしているのかよくはわからないが、人間といっしょでどこかで相性の区別をしているのであろう。