違った眺め

ハルと散歩をしていると、よく道路わきにある一段上がった花壇の縁を歩きたがる。歩道の幅は三メートルと広いのだがそこは歩かずわざわざ道路のレベルより五十センチくらい上がっているだろうか、上部が平らな二十センチくらいの縁の部分を好んで歩くのだ。花壇の中は、つつじの植え込みになっており、春先にはピンクや白い花で満開だ。今は青葉が濃く茂っているそのそばをすたすた歩く。近くの小公園でも同じような行動をする。木馬や滑り台のある平地の部分はやり過ごし、周囲の土手際の間知石の擁壁(一メートルくらいの高さ)の上縁を歩きたがる。ハルだけかと思っていたら、これは、先日他の飼い犬の同様な風景も目にした。もう一つ、歩車道を分ける側溝横の十センチ幅の段差の付いたコンクリートの縁石の上を四本脚を外すことなく、平均台の上のようにひょいひょい見事に歩いていく。これは、ハルだけにできる見事な芸当のようである。

わが娘が小さいころ、よく道路沿いの縁石の上に乗りたがり、手をつないで歩かせていたのを思い出した。通りすがりの幼児を連れた親子のこの風景も時々みかけることもある。どうして上がりたがるのだろうな、と一度花壇の縁石の上に上ってみた。いや、日頃歩いている道路を上から見る眺め(目線)は気持ちいいな。乗用車の屋根も見えるし、歩道と車道がパースペクティブな眺めに視野も広がって感じる。犬も、子供たちも、同じように感じているのかなあ。それとも、親が知らず知らずのうちに教えているのか。

バイオネスト

一昔前までは各地に鎮守の森が存在していた。本来はあくまでも神社中心でそれを取り囲むようにしてある自然林の森を意味する。現代でも、田園地帯ではその名残を見かけることはあるが、都会の中では宗教的な意味は薄れ、その役割は緑地の保全、再生を目的とした都市の中の自然公園のようである。ハルとの散歩コースのオルターナティブにこの緑地をめぐるルートがある。我が家からすぐ近く(四百メートルくらい)ではあるが、道路が少し上りコースなので、週末につきあう程度なのだが。ここは、百年前の浄水場の跡地で、丘状になった地形に自然木と緑地が広がる自然公園となっている。この緑に近づくと、ハルのリードを引っ張る勢いが増してくる。うっそうと茂った木々のひときわ深い緑、落ち葉が積もり丘陵状にうねった土の通路、さえずる鳥の声。ハルの先祖は屋久島の屋久犬だと聞いているが、猟的本能がよみえるのか、きっと目を見開き、耳をぴっと立てて、せわしなく落ち葉の間のにおいをかいでまわる。

本来ならば、リードを付けずに自由に遊ばせてやりたいのだが、ここではリードを長めにしてハルの行先のコントロールを行っている。先日、枯れ枝で三メートルくらいのサークルを作り、その中に枯葉をいっぱい入れたところを見つけた。説明書きによると、時間をかけ、自然の力で土に帰していき、それが虫や土の中の生き物の住処になるバイオネストというらしい。ここでは、他の公園に見られるボール遊びの場所や、人工的な遊具はないが、子供たちが自然の悠久さ、自然との共存、共生の大切さを学び、大人たちには安らぎ、懐かしさと自然存続の重要さを感じさせる空間がある。ハルにも、そのうち屋久島に里帰りをさせてあげたいと思っているのだが。

クスノキの大木

町中に近い割には、我が家の周りには緑が多い。春先の花々も良かったが、初夏のこの季節には木々が青々と葉を茂らせ、生気をはらんでいる。その中でも特筆するのが家を出てすぐ近くにある市の保存樹だ。幹回り四メートル近く、樹高は隣家の五階建てマンションより少し高いので二十メートルはあろうか、クスノキの大木である。樹齢は相当いっているだろうが、まだ生き生きと緑の葉がいっぱいだ。この木は、隣家の敷地の一角にはあるのだが、通りの交叉に面しており、大木の周りがパブリックに使える小さな緑地に開放されている。毎朝のハルの散歩の第一歩はここから始まる。市のホームページにも「保存樹は歴史を見守ってきた遺産であるとともに、まちにうるおいを与えてくれる貴重な財産です」と書かれている。

確かに、この木のおかげで地域に緑が増え、近隣の住環境もその価値が上がっているように感じる。自然のなりわいは大切にしたい。私が住宅を建てた二十年ほど前は、隣の屋敷の一部にあったこの木もその後、我が家の前、横とたてつづけに起こったマンション建設再開発の波に巻き込まれることになった。街中の民間の再開発計画では、当事者・ディベロッパーのコミュニティに対する意識もさることながら、地域の住民の考え方も重要であり、それが行政を入れて手を取り合い地域の良さを守っていくことが必要である。両隣とも、全国大手のディベロッパーで、マンション建設に多少の交渉は要したが、歴史に残るクスの大木も以前より増して、輝いており、快適な住環境の地域が形成されつつあるようだ。この木には、これからもずっと地域を見守り続けてほしい。

雨上がりの合い間に

ハルのいない散歩もたまにはいいものだ。今日はハルがハーネスを仕入れにヨメサンと連れだって、友達のドッグ用品の店へ勇んで出かけた。雨上がりの合間の夕刻近く、一人でふらりと散歩に出た。近隣のドラッグストアーで鎮痛剤を仕入れ(2回目のワクチン注射の非常用)、スーパーの魚屋でアビージョのためのネタを手に入れた後、少し足を延ばそうかと空を仰ぐと、そのうちまた降ってきそうなので、帰り道のコーヒーショップの屋外テラスに落ち着いた。テーブルごとに直径3メートルほどの大きな八角形のテントがあるので、ちょっとした雨ならば雨宿りも出来るだろう。途中の道すがら気付いたのだが、いつもハルを連れていて割に下方を気にしているせいか、通りすがりの景色を見過ごすこともある。梅雨空の下、道路わきの植物は生きている。日に日にその姿を変えているのだ。そして、一雨の栄養剤に一息ついて、先端に小さな花を付けたか細い茎を太陽に向けてすっくと伸ばし、美しく、たくましく成長している。

通り沿いのテラスでのひとりのお茶も結構楽しい。いや、沈黙の中のお茶は一人に限る。物書きの手も室内にいるときと違い、滑らかにはかどる。手帳に目を落とす自分の耳に、ふしぎと通りを行きかう自動車の排音やバイクのカタカタ音、会話を楽しみながら通り過ぎる女性や子供たち声が、雑音ではなく心地よくひびいてくる。やがて、植え込みの中の外灯に明かりがともり始めた。案の定、テントに少し雨の音が聞こえてきた。もうしばらくいようかな。

パティオの展開

近くにこんな空間があるとはついぞ知らなかった。我が家から出て数十メートル、ハルを連れて毎日通る通り沿いの路地の奥に見える石の噴水は、水は出ていないが素敵だなといつも思っていた。週末の雨上がりの早朝、いつもの散歩のとき、「ハル、ちょっと入ってみようか」。巾二メートル足らずの路地の奥のマンションには1軒飲食店も入っているので大丈夫だろう。十五メートル程奥まったそこには小ぶりながらも洒落た空間が広がっていた。視界の右側には4階建てのマンションへの外階段と噴水、左側には小さなパティオが広がっている。ざっと二百平米くらいか。パティオの奥には、数台の駐車スペースと駐輪場、入り口近くにはこんもり茂った樹木、それらが年期が入って起伏のある舗装レンガの床の中に収まっている。そこいらにあるマンション付属のありふれた設備なのだが、このスペースが隣の民家、奥の幼稚園と民家そしてその背景に見える高層マンションに挟まれて、居心地良く収まっている。

都会の中で、建物自身にプライベートな中庭を持つコートハウスに関してはいろいろ考察し、いくつも作ってきたが、周囲の建物に囲まれて調和の中に偶然できているこのパティオにはそれなりの魅力を感じた。これも、都会の中でこそ味わえる一風景なのかもしれない。それにしても、あの噴水は小憎らしいね。おかげでいい思いをしました。いつまでも変わらないでね、でも、またそれなりに変遷して、魅力を出していくのだろう。

それとなく、バリアフリー

散歩の途中、バス停のベンチで一休み。といっても、ベンチではない。バス停そばに植えてある街路樹の周りを囲っている自然石の縁石だ。高さ四十センチ、幅四十センチくらいの黒御影石のトップが磨かれていてきれいである。時々、バスを待つ近くの中学生が座っている。ここは、歩道の幅が広いのでバス停にベンチを置いてもよさそうだが、都心の目抜き通りではないので設置されていない。ハルと一緒にしばし休憩。「お利口さんだね」。通りがかりの人が声をかけてくれる。ハルがそばで両足をそろえて、きちんと歩道に座っているからだ。ベンチと言えば、近くの大通り沿いのバス停があるところで、余り広くない歩道沿いに面したカイロプラクテックの店が、オーナーの考えか敷地の一部を利用し、バス待ちの人達にそれとなく座れる場所を提供してあるのを目にしたとき、町中のちょっとした思いやりにホッとするものを感じた。

散歩コースの高齢者マンションの敷地の歩道沿いには、通りより一メートルばかり引っ込ませて、クオーツの自然石を張った塀がめぐらせてある。塀と言っても九十センチくらいの高さで、上部を幅広く滑らかな平らにして、その先にユキヤナギを植えてある。春には、小さな白い花が目の前に展開し、見事である。このあいだ、ハルを連れてヨメサンとそばを歩いているとき、塀の上を触りながら「これって、高齢者にいい手摺だよね」という。なるほど、腰あたりの高さにしてあるのはその役目もあるのかも。植栽の縁石(ベンチ)にしても、マンションのへい(手摺)にしても、製作者の意図かはわからないが、それとなくしつらえてあるのは興味深い。花が咲いていた時、ハルも背伸びして、石塀に前足をかけることも出来たし。

ついでに寄り道

我が家から散歩にひとたび出ると、ハルはいつも同じ方角を取ろうとする。学習のたまものである。途中で別のコースに行こうとすると、顔を上げて見守り、指示を仰ごうとする。そんないつもと違う道を歩いているとき、ふと「こっちに行ってみようか」とか、「あそこへ立ち寄ってみたい」と思うことがある。もちろんその時の思いつきでの行動でもあるのだが、もしその時それをしないと、その後なかなか機会は訪れない。まあ、わが町の中では「行きたいときはまた行ける」し、今は、ハルを連れての散歩が多いので、どこへでもというわけにはいかないのだけれど。以前、幼かった娘たちを連れて家族でポルトガルに行った時もそうだった。地中海に近い南国の風光明媚な風景と独特のエキゾチックな陶器に魅せられ、ポンコツのレンタカーを駆使してあちこちに寄り道をしたものだ。

何年か前、一人でメキシコに旅した時も、「今度来るときはもうピラミッドには登れないかもしれない」と、一生懸命岩を登った記憶がある。今は、渡航禁止でなかなか行けないが、また次に機会が訪れても、もうトップを仰ぎ見るだけであろう。おまけに、寄り道はいつもではないが思いがけないご褒美もある。素晴らしい景色とか、新しい発想とか、「立ち寄ってよかった」と思うことが多い。寄り道は、出来るときにやってみるのがコツであろう。楽しいよ。ハルもきっと。それに、人生も。

道草

ハルの散歩は道草が多い。朝の定番一キロメートルコースを終えるのに三十分くらいはかかる。したがって、急いでいる朝は、用足しだけで、散歩は無しだ。ごめん。コース沿いに高齢者のマンション、保育園、高校、小学校と傍らを廻るのだが、朝の通園、通学時間帯と重なり、子供たちに紛れて歩く。小学生は概してぞろぞろ、保育園児に至っては、よちよち歩くのをお母さんがじっと待っている。でも、ハルだけは道端に植えてあるハーブや自然の雑草のところで必ず立ち止まるのだ。「クンクン」。最近、ハルのリードを新しくした。以前のものは、手で持ち、手指の感覚だけで動きを察知していた。立ち止まりがあまり長いと引っ張って促していたのであるが。今度のものは、肩から胸に掛けることが出来、ハルが引っ張るとこちらも体全体で感じる。ひとりで動き出すまでじっと待つことが多くなった。

そういえば、若き時代ニューヨークで暮らしていた時、幼児をリードでつないで散歩している親子連れをよく見かけたものだ。幼児が思いのままあちこちに歩き出すので、一、二メートルの適当な距離感で、安全を保ちながら動きを自由にさせていたのであろう。若き日の自分も双子の幼児たちのために早速利用した思い出がある。その後、アメリカの流行をすぐ取り入れる日本では、これは余りはやらなかったようだが思い出深い体験であった。みちくさを終えて我が家へとたどり着くころには、ハルも満足したか、おとなしくなっていた。

街角のカフェ

五月の晴れの夕方は心地よい。雲の間から見え隠れする陽も少し傾き始め、ペンを握る指の影をノートに落としている。ハルとの散歩で時々立ち寄るカフェがある。一緒に中まで入れる店はまだ見かけない。ここは、大通り沿いの歩道の内側にレンガ張りの駐車場があって、その奥に屋根つきの屋外テラスを設けたカフェレストランが建っている。テラスには、スチール製の丸いテーブルと椅子が配置され、そこが我々の定席だ。道路の成り立ちの歴史か、日本の町ではこのような配置にゆとりのあるスペースを持った店はまだまだ少ないが、ここはパーキング・スペースを逆手に取りうまく利用しており、一番のお気に入りだ。おまけに、店のスタッフの方たちが「ハルちゃん、よく来たね」といつも可愛がってくれる。そのせいか、ここを通りかかると必ずリードを引っ張って入りたがるのだ。

一杯飲む間、(今しばらくはコーヒーで我慢)ハルはテーブルの下でじっと座って、周りの景色を眺めている。歩道沿いの樹木の間から見える道行く人や車の動く姿を見るのが好きなのだ。駐車場の加減で少し奥まっているので、車の騒音や通行人の話し声も小さく、バックグラウンド・ミュージック程度で、都会の生活の一コマを感じさせる。ひとしきりすると、ハルが上を向いて「フン、フン」とささやいた。景色に飽いたか、おなかがすいたか。   そろそろ帰ろうか。尻尾を振って「じゃ、また来るね」。

近隣公園

今の時間、近くの公園にこれだけ多くの子供たちがいるとは思わなかった。ウィークデーの夕暮れ前のひととき、ハルとの今日の散歩は我が家近くの住宅地域で囲まれた公園。いつもの朝とはルートが違いハルも張り切っている。公園に近づくと、学校放課後の児童たちのはしゃぎ声でいっぱいである。ある子たちはドッジ・ボールのぶっつけあいに興じたり、ブランコ乗りで空中に舞う小学生、お母さんと砂いじりをする幼児、ベンチは子供たちの水筒やリュックで占領され、花壇の縁に座って見守る年寄りの姿等、様々である。少しずつ沈みかけた太陽が、次第に夕方近くの時間になるのを示している。私の少年時代には、家の近くの原っぱで友達とチャンバラごっこをして、母親が「夕御飯ですよ」と声をかけてくれるまで遊んでいたものだ。

今のこの公園には時計台がある。そして、余り作りすぎていない。多分、きちっと作った後の管理が行き届いていないのかもしれない。粗い土の感触とにおい、意図的ではなく表面に少しでこぼこがある。それが、植栽際のところどころに生える雑草群と合い間って原っぱの感覚に近い。校庭の遊びとは違い、自由に羽を伸ばせるのが良いのであろう。ハルもこの公園が大好きである。適度に伸びた草むらで、必ず用を足す。もちろん、エティケット袋持参である。子供たちが寄ってきた。「触っていいですか」。ハルもびくびく顔を差し出す。「ゆっくり撫でてあげてね」。