自然の遊び道具

いつもの小公園に、幼児の残した夢の世界を見つけた。砂利、砂、イチョウの葉、小枝、土でできた小さな飾りである。砂利は正確にはリサイクルの発泡骨材のあいだに、小さな栗石が混じっているが、子供にとっては、公園に見られる自然の素材とみていいだろう。砂利が二十センチくらいの円形に配置され、その中にイチョウの葉が、まだ青いものと茶色く枯れたものをきれいに分けて入れられ、砂と土が小さく盛られている。円形のそばには小枝が数本置かれていた。一瞬見た時にイギリスの世界遺産ストーン・ヘンジを頭に描いた。自分もまだ映像でしか見たことがないのだが、まさかそのミニチュアではないだろう。柔らかな日差しの下で遊んでいる子供の情景が目の前に浮かぶ。今の自分が目の前に見る小公園よりも、よりずっと大きな視界の公園の中で、近くに転がっていた(落ちていた)自然の材料で、子供の心にひらめいた形を作ったのであろう。維持しすぎず、目を届かせすぎず、放置しておく公園や親の姿も重要なのか。

マダガスカルで見た少し傾いた赤い土の家々や、ブータンで経験した木と石の屋根を乗せた褐色の土づくりの家など、そこに住む彼らが必要に迫られて作る住み家も、自然の遊び道具からの発想ではなかったのではと思う。そういえば、ハルにも以前は遊び道具をドッグストアーで買い与えていたが、今やほとんどそういうものに興味を示さず、毎日の散歩コースで種々の自然の変化を楽しんでいるようにも見える。

火災の知らせ

夜明けまだ間もない朝六時過ぎ、突然向かいの高層マンションの方から「フォーン、フォーン」と警報が鳴り響いた。「フュッ、フュッ、東棟の一階に火災が発生しました。避難してください」。「・・・」。びっくりして表に出てみると、赤ちゃんを抱いた数組の若夫婦がマンションの入り口から出てきて、不安そうにしている。警報は鳴り続いている。煙も何も見当たらない。常駐の管理人はいないのだろうか、防犯会社への連絡はないのだろうか。十分くらい経っただろうか。未だ警報が鳴りやまないので、消防に連絡してあげよう。二百メートルくらい離れた近くには消防の分署がある。元、区の消防署だったところが、統合で分署になったのである。行ってみると、まだシャッターは降りている。本部からの連絡がないと動かないのだろうか、でも当直位はいるだろう。目の前に一台の車が止まり、誰か一人事務所に入っていった。多分、住人が知らせたのだろうと思い、その足で戻ってきた直後、通りにサイレンの音が鳴った。やがて、マンションの警報が何度か鳴り、その後静かになった。出ていたマンションの住人達も戻っていった。

ひょっとしたら、火災報知機の誤作動か、いたずらかも・・。都会のマンションの危機管理は十分だろうか、誰かが知らせるだろうと住民同士はそれぞれ遠慮しているのだろうか、高層マンションの器械に頼りすぎてはいないか、お互いあまり親しくないマンションの住人たちの防災教育はどうしているのだろか・・・など、考えさせられる一幕であった。一つ分かったこと、都会で育ったハルには通りを行くサイレンの音に耳慣れしているせいか、今回は何もなかったような顔をしていた。

シテュエーション

近隣のKホテル・リゾートの前庭に屋外カフェのスペースが出来た。この庭は大きからず小さからずで、今までいろんな形で利用の方法が試みられてきていたようだが、今度、背面のカフェレストランが使用する形で、屋外のカフェをしつらえているのを、ハルと散歩をしているときに気づいた。ここは車の始終行き交う四車線の大通りに面しており、結構騒音も大きいそばに、樹木に囲まれてデッキテーブル、チェア、テントをワンセット用意している。ハルに「今度、入ってみようか」と語りかけながら、その場をやり過ごした。一回り散歩をしたのち、帰りにいつものカフェに立ち寄った。昼間はベビーカーを連れたヤングママ達でにぎわうこの屋外カフェも、夕方のこの時間帯には誰も座っていない。ここは、二車線の通りには面しているが、表通りと比較しても車両数は一段と少なく、テーブルと通りとのディスタンスも幅広い歩道から十五メートルくらいはある。気にならない程度の車音を背景に、夕方のそよぐ風に揺れるテントが心地よい。

ハルも慣れているのか、すぐ座り込んだ。コーヒーを飲んでいると、ハワイやマダガスカルの海岸で味わった大きく頬を撫でる優しい風を思い出した。そうこうしていると、雨上がりにまだ垂れ込めた夕方の雲の間から沈む太陽の赤い姿が現れた。映画の一シーンのような雰囲気である。でも、今日の散歩の前半に通りかかったホテルの屋外カフェも一度トライしてみよう。はて、どういうシテュエーションになるだろうか。

起伏のあるところ

近くの小公園の中に、なだらかな斜面状の地面の上に芝生を植えた起伏のある場所がある。樹木の周りの土を水捌けの良いように盛り上げて、その勢いで周囲の一帯の土を波たたせるように仕上げてある。ハルはこの場所が大好きだ。公園に行くと必ずここに行きたがり、四足でうまく水平に体のバランスを取りながら、クンクンにおいをかいで回る。ここでは昼間、ベビーカーに連れられた幼児たちも、こちらは二つ足でよろよろしながらも「きゃあ、きゃあ」言いながら、喜んで遊んでいるのを見かける。自分も立ってみると、安定性は悪いが、ゴム底のスニーカーを履いた足の裏が凹凸を感知し起伏のある地面に吸い付くように触れ、何とも変わった心地よい気分になるのだ。土の上に柔らかい芝生を敷いてあるのでなおさらである。これがワーキングスペースであれば、確かにフラットで動きやすい床の方が合理的であろうが、休んだり、遊んだりする場所では、こういう床もありだろうか。普段歩き慣れているアスファルトの感触からはずいぶんと違う。

起伏のある土地と言えば、以前訪れた韓国のプサンやメキシコのサンミゲルアジェンデ、フランスのバンスなどの町は、全体が起伏のある地形に位置し、町中を歩いたとき登り坂を上がりきると、大きく視界が開けてまちを上から眺めることができ、下り坂を下りるときは道筋の細部まで見せるように視界が狭まるなど、異国の町歩きということもあってか、興奮の連続であった。坂状の場所を歩くのが多少疲れる年令になっては来たが、公園の起伏のある場所共々、興味をそそるものがある。

木の名称

先日、久しぶりにヨメサンといつものようにハルを連れて近くの通りを散歩しているとき、歩道沿いの大きな樹木の下に黄白色の小さな一センチ程度の花びららしきものがたくさん散らばっているのを目にした。「きれいだね、何だろう」とつぶやくと、「ほら、歌にあるでしょ、アカシアの花よ」という。ああ、そうか、「アカシアの雨に打たれてこのまま死んでしまいたい・・・」のアカシアか、とふとくちずさみそうになった。でも、待てよ、ヨメサンとは世代が違うし、こんな歌を知っているはずはないぞ。ひょっとしたら、叙情歌の「アカシアの白い白い花が咲いてる、・・・」の方かも、と。まあ、その詮索は置いといて、最近、通り沿いの樹木や花に名前を書いてあるのを時々見かけることがある。書き方も千差万別で、きちんと印刷された字で学名や特長まで説明したものから、俗名らしきものまでいろいろある。いつもの散歩道沿いの保育園の外沿いに植えられた小さな木の細い幹には「しまとねりこ」とかわいらしい字の立札が添えられていた。なかなか生長しないなとも思いながら、ハルといつも通りかかる。

この木は玄関先にいいな、このツタは塀沿いに利用できるかも、などと帰宅した後、植物図鑑やインターネットで詳しく調べたり、学習できるので、便利で結構楽しいものである。それにしても、樹木や花の名を覚えるのは未だに苦手な自分であるが、建物の新築時に前面に植えた樹木が、時が経過して大きく形よくなり、建物と調和しながらファサードを覆い隠してくるのを目にするとき、幸福感を覚える次第である。

入ってみたくなる道

我が家の前面の市道は、道幅が少し変化して不規則である。全体で百メートルの長さの道路の両端がいずれも一定の車の往来のある市道につながるいわゆる三角形の斜辺上の部分にあたるのだが、片方は七メートル幅、もう片方は四メートル幅で少し折れ曲がった尻すぼみ型になっており、大きな車の通り抜けが難しい。隣接する大型敷地は現在は大型マンションの用地になったが、以前は市の管理する総合体育館があり、休日には体育館利用の車が最短ルートを提示するカーナビの影響か、間違って入ってくるケースが多く、バックして出ていく車をよく見かけた。我が家の土地を手に入れて以来、この前面道路に関して市や隣接地と交渉をして、いくつかの是正を行ってきた。まず、すぐ近くに幼稚園や小学校もあり、園児や小学生も利用する道路であることから、バックする車の視界の危険性を少なくするため、道路ミラーや先細りの道路巾を示す道路標識(この先、細い道路のため大型車両の通行禁止の表示)をつけてもらった。(規定のせいか、標識の高さが高いので乗用車は気が付かない人もいる)。その他、市道側溝の排水蓋取替、側溝沿いのフェンス設置、道路に設置された隣接地の電柱移設等改良を行った結果、車の進入も少なく、ずいぶん安全に使いやすくなった。

一時は、ハルを初め、ワンちゃん仲間の人達から、道の両端を閉じてドッグランにしたらという冗談交じりの提案も出たほどだ。現在では、道路両脇に建てられたマンションの前面に配された多くの樹木のため、セットバックして建てた我が家も見えないほど緑陰で囲まれ、イタリア・バロックの透視画的色彩を帯びた先細りの通路に、木漏れ陽が差し込み、ハルの日々の散歩の起点となる愛着の持てる場所になった。

工事中の看板

二年間くらい続いた我が家近くの大型マンションの工事現場の長い仮設塀が少しずつ外され始めた。白く塗られた高さ二メートル位の塀には、一時敷地そばの保育園児の描いた風景画などが風雨にさらされても良いように、きちんとコーティングされ飾られていた。工事中といえども、都会の日常の風景のひとこまなのであるし、まちの快適な雰囲気を維持する上で優れた役割を果たしていると言える。S建設の工事所長さんの指示や性格であろうか、時々広い塀の外をゴミ拾いして回る作業員の人達の姿や子供たちの絵を飾るなど、孫がいるくらいの年配のやさしい所長さんなのであろうか。まだ、見かけたことがないので、想像の域を出ないのではあるが。マンションの営利を目的としたプロジェクトでも、きっと周囲のまちと調和のとれた環境を作ってくれることであろうとも期待する。春ころから現場の入口に季節を反映した大きな絵と文字が「梅雨」や「夏休み」のように掛けられていたが、絵も文字もいずれも保育園児の描いたように思っていた。

つい最近これが「残暑」から「●●の秋」という風な文字に変わった。季節を感じるかわいらしい絵はいつも通りだが、一見、幼児の字体にも見える文字の形と、文字の意味する大人っぽい感覚がアンバランスに感じ、ついほくそ笑んでしまった。「クリスマス」頃には看板も取れてしまうであろうか。ハルの新たな散歩道が出来そうなので、待ち遠しいこの頃ではある。

キューピーの忘れもの

家の近くの通りのバス停続きに整備された公園がある。歩道のそばには樹木の足元に囲まれたベンチがあり、通学生徒がよく腰を下ろしてバスを待っている。そして、その奥に、日中はベビーカーを引いたお母さんに連れられた幼児たちでにぎわうこじんまりした小公園が控えている。この公園には、木々に囲まれて小さな滑り台と子馬乗りが二台置かれており、後は土の空間だけのシンプルな遊び場である。時々、ボランティアらしきお母さんたちが周囲の木々の落ち葉の清掃をしていただいているおかげか、利用する人たちのマナーが良いせいか、ごみらしきものはほとんど見かけたことはない。ハルは毎日早朝、まず第一にこの公園を散歩するので、風景はある程度熟知している。一週間ほど前から、公園の中に二十センチくらいの小さなキューピー人形が一体目についた。その昔の自分の小さいころからある、あのプラスチック製の人形だ。ハルも最初はにおいをかいでいたがそのうち振り向かなくなった。今朝は小岩の上に置かれていた。

日によって、人形の置かれている位置が違うので、子供たちがそれで遊んでいるのだろうか。それにしても、人形はだれのものだろう。形からして、一、二歳の女の子のものか、三、四歳になると自分の忘れものに気が付くだろう。そういえば、子供たちが遊ぶ他の公園の砂場には、砂いじりの道具や小さなボールが転がっていた。最初はだれかの忘れ物だろうが、そのうち子供たちの共用の遊具になったのであろう。心を宿すともいわれる人形のことだけに、ことこの風景だけは、妙にその後も気になっている。かわいがられておくれ。

ハルの遁走

今朝は大変だった。ハルがいなくなったのだ。上の娘が仕事に出掛けた後、ヨメサンが外出の用意を始めた。ハルにとっては、我が家の順位は上の娘、ヨメサン、小生、下の娘らしい。何せ、ハルの一日二回の散歩をはじめ、朝夕の食事、用足しの世話はほとんど全てやっている自分だが、なぜか三位である。上の娘は仕事から帰宅した後にハルを抱くだけだが、なぜか一位である。まあ、それは良いとしても、ヨメサンの二位はいかがなものか。居眠りの好きなハルのそばでいつもくつろいでいる彼女が出かけるしぐさを見せるとハルがそわそわし始める。事件はその後発生した。いつも通りハルの世話を終えて、「アトリエに行くからね」とハルに呼びかけても、いつもの場所に姿が見えない。バルコニー、居間の机の下、食堂、ベッドの上と普段いそうな所には姿が見当たらない。もしかして、と、階下の玄関に行ってみた。ドアが開いている。我が家の玄関ドアは木製の大きな引き戸である。ハルの鼻の力で開けられるのだ。しまった、ヨメサンの後追いをしたなと思い、急いで駐車場の門扉の場所まで降りてみた。

すると、前の市道の十メートル程先で、ちょこんと座っているではないか。「ハル、おいで」と声をかけても、知らん顔だ。おやつを持ってきても、用心をしてなかなか近づこうとしない。家にいたので首輪もつけておらず、わが方は少々狼狽した。こんな時こそ、じっと待つのに限るのだが、生来の自己性格が反映してか「ハル、危ないよ」、「一人だとご飯に困るよ」、「後で散歩に連れて行くからね」ト呼びかけても尻尾を振り振り、ダメ。見合いが続いて二十分ぐらい経ったか、ハルがしぶしぶ寄ってきた。もう、そろそろいいかなと、思ったのかもしれない。家に連れ帰ってもなかなか玄関から離れなかった。さっきの言葉を覚えていたかな。仕方なく、セミの声の鳴く暑さの中を、異例の時間の散歩となった。「ハル、その代り途中で一杯飲むのを許してね」。

曲線の道

道路が曲がりくねって通っている道も面白いものだが、道路自体が曲線状になっているのは珍しい。私たちが普段目にする道路は歩道も含めてほとんどがまっすぐ(直線)の形状である。仮に、そういう歩道を酒に酔ったか、ふらふらと歩いている人を見かけたら、どちらかというと迷惑だ。でも、歩道自体がくねくねしていたら、本人も、他の通行人もあまり何も思わないのかもしれない。我が家の近くのマンションの敷地境界沿いにある歩道は酔っ払い用でもある。ちなみに、途中に横になれるベンチもある。と、いっても、もちろんその目的の歩道ではない。Sマンションの建設に際し、車の見通しがやや劣る上に、朝の脇道交通量の多い市道に面した敷地の一部を、外部の住民等も利用できる歩道にしていただいたのだ。この市道は小学校、幼稚園の児童も登下校時に使用するため、新しい歩道スペースは地域住民や子供たちにとって、安全で大いに役立っている。そして、その後にできた我が家隣のMマンションの際も、前例に倣って欲しいという要望をすんなり受け入れていただいた。

これで、大通りから小学校に至るまで、私的ながらも安全な歩道を確保したことになる。製作者の好意(趣味)からかも分からないが、民間の道路だから自由に出来た曲面形状の歩道は、従い片側は直線、対側は曲線という風になった。おかげで、普段歩くときでも道路際に植えられた樹木を鑑賞しながら安心して通行できるし、ハルも歩道沿いの縁石のにおいをかぎながら、安心して散歩できる歩道コースを楽しんでいる。