多様な花々

大きな植木鉢に植えられたミモザの木に黄色い花が乱れ咲いている。そして、その隣には縦横に組まれた木製のフレームから、四段、十列、合計四十個にもなる水を入れたフラスコ型のガラスの容器が吊られ、その中から各々違った花びらが顔を出している。散歩の通り沿いのこの店は、内側の明かりも余り漏れては来ず、入り口横のガラスのファサードが全てこの装飾で覆われている。「何の店だろうね」とハルといつもつぶやきながら、不思議に思っていた。店の名前や、独特の飾りつけからしてひょっとしたら南欧か南米か、外国の人なのかな、普段このあたりでは見られない多様な文化の一端を感じるように思えたものだ。ある日の夕刻、散歩に出ていつものようにそばを通りかかると、知り合いのワンちゃん仲間の女性が、入り口が開いた店の前で店主さんと談笑しているところに差し掛かった。「あっ、ここは美容室なんですね」と一瞬、声を出してしまった。きれいに飾られた花々の前で、女性が巧みに話をするのを、そばで相づちを打ちながら聞いていると、全て自分でアイデアのもとに飾りつけをしているようだ。

きちんとした考えを持たれた、なかなか個性的な美容師さんのようである。さまざまな花々と共に、多様な文化の、多様な職業の人を見たような気がしたものである。

子供達の交叉点

散歩道の一角に子供たちで一杯になる交叉点がある。このところのコロナ対策によるフレックス制の通学時はそうでもないが、それまではとにかく朝の通学時間帯の混み様は、住宅地のこの付近でも一様ではなかった。小さい順に、保育園児、小学生、そして高校生が同時間帯にこの交叉点を利用するのである。交差する両者とも歩道のある二車線道路で、制限三十キロ、途中に速度抑制装置のハンプもある生活道路なのだが、南北を抜けるメイン道路の脇に走る車の通り抜けに利用されており、信号もないので特に朝の通勤時間とも重なると、一時的にかなりの車の交通量ともなる。歩くのが最も遅いのが母親に手を引かれまだたどたどしい歩き方の保育園児、その横を通り過ぎるのが黄色い学習鞄を背負い、揺れる給食袋、手にはハーモニカや画材道具を入れた箱を持ち、交通ワッペンを張った帽子をかぶって、談笑しながら歩く小学一年生の群れ、それをよけながら頭が一つ抜きんでた上級生が追い越していく。そして一列に並んだ自転車通学の高校生たちが車道の端を進んでいく。

交叉点では、挨拶を交わしながら交通整理の旗を持った小学校からPTAの親二人と、高校からは職員、先生が三人の合計五人が車、自転車、子供たちと手分けをして交通整理をしている。少々過剰な気を付け方のようではあるが、我が国の交通事情、マナーを考えると致し方ないのかな。「ハルちゃん、我々もせいぜい邪魔にならないように注意しよう」。

幸せもの

僕は幸せ者である。といっても、建物の話ではあるが、ハルと散歩するコースには、数点のわが作品が建てられている。いずれも、毎朝・夕、ちょっと回り道をすれば目にする位置にある。これといって特別の感情はない。わが子供たちと一緒で、そこに存在すること自体が普通であるからかもしれない。ここは苦労したな、あそこをこうやっておけば、と思うこともあまりない。その都度、真剣にプロジェクトに取り組んでやったものだ。その中の一つ、K電力の社員寮は、特別に思い出深い。設計当時、外部に開いた建物をイメージして通風を感じるバルコニーを作りたいと思い、穴あきブロックの案に鉛筆を幾度も走らせ、沖縄に何度も通った(当時から、経済的に成り立たない建築材料は本土ではもはやあまり作られていなかった)ことや、コンクリート製の手摺柱の太さの施工で現場の所長さんと討論を重ねたことなど、散歩の通りすがりに思い出す。その後、この所長さんとは、つい最近まで互いの交流が続いたものだ。

三十年前、竣工時に植えたヤマモモの木は徐々に大きくなり建物のファサードを覆うまでに成長した。ふさふさと濃い常緑の葉を茂らせ、時の経過とともに建物と調和し一体感をなすようになったようだ。ただ、反省点もある。植物は夜露が当たらないところでは育たないことだ。ピロティ下の花壇に植えたツタは成長せず、とうとう枯れてしまった。もう一つ、半公共的な企業の施設として、住居ではあったが塀を取り除き、道路に面した場所にコミュニティ用にとベンチを設置したのだが、浮浪者が横になるかもという理由で数年後取り払われてしまった。今となっては、近隣の高齢者や幼児のための格好の場所だと思うのだが、時代を少し早く先取りしすぎたかな。

坂道の上の建物

大通りと平行に走りJ緑地に向かう登り坂の脇道沿いに、朝日を浴びて燦然と輝く四階建ての建物がある。赤茶色の煉瓦状タイルを張った外壁は、陽を真正面に受けてオレンジ色に輝き、丸くアーチ状の窓と上部にとんがり状の緑青屋根をふいている姿は、この時間帯周囲を圧倒するかのような存在に見える。直線の坂道から、この建物脇を抜けて一直線に伸びて緑地の上に至る階段は見ごたえがある。ハルはこの道が大好きである。静かな上に、つまり先にある緑地の自然林に鼻が利くのであろう。この方向に来ても、たいていの日は階段下の公園状の場所で散歩を済ますのではあるが、朝から晴れ渡った日曜日の今日は、坂道の建物に勇気づけられたせいか、五十段はある階段を上って、上部の空き地に行くことにした。ハルが強くリードを引っ張る。毎日、シリアルにカルシウムの多いにぼしを加えて朝食にあげるので、脚は丈夫なはずだ。やっと上まで上がると、青空のもと緑に囲まれた空き地が広がっていた。

誰もいないのを確かめて、リードを外してやる。生き生きと嬉しそうに、自由に雑草のにおいをかいで回っている。かけっこをすると跳ねるようにして追いかけてくる。「ハルちゃん、良かったね」。

春のきざし

歩道沿いのまだ幹と枝だけの街路樹の根元にかわいらしい雑草の花が咲いているのを見つけた。散歩の途中、最初に気が付いたときは小さな薄緑色のハート型をした葉の群生の中に、一センチ程度の長さの筒状の黄色い花を十数個見ただけであった。近くに植えられてある灌木も鮮やかな赤褐色や緑黄色の葉を混在させながら「春が近いのだな」と思わせる風景である。地面に近いところほど春の足音が早いようでもある。その後、毎日通るところでもあり、気にかけて眺めていると、日増しに黄色の数は増え、数十を数えるようになった。各々の花もニー三センチと長くなり、先端はラッパ状に開いている。木の根元が一段と華やかになったように見える。夕方の散歩の帰り道、久しぶりになじみのコーヒーショップに立ち寄った。まだ少し肌寒いが、陽が落ちるのが確実に遅くなっているのが分かる。やがて、太陽も沈んだので、ハルと帰宅の途に立ちあがった。例の雑草花の前を通りかかると、薄明りの中で花々が日を惜しむかのように少しうなだれながら口を開いている。

街路樹の剪定作業車が来る時期が遅れるのを祈りながら、「明日も元気な姿を見れるといいね」とハルに話しかけて、その場を後にした。

ハルの主張

このところ、ハルが主張するようになった。いつもの小公園の後、通りに出ると、「こっちに行こう」というように、目を見張り、リードを引っ張って動かない。平坦なマンション廻りの定番コースではなく、必ず反対の上り坂のあるJ緑地方向へと行きたがるのだ。何回かに一回はいうことを聞いてあげるが、それでも「今日はこっちにしよう」というと、仕方なくか、付き合ってくれる。それでもしばらくして交番のある小六つ角に出ると、今度は数回に一回ではあるが、例によって目をじっと見つめて、違う方向へと主張するのだ。周りには犬の姿などは何処にも見当たらない。「そうか、じゃ君の言う通りにしよう」と、今日はその後ハルの歩きたがる道を行くことにした。大通りへ出ても、じっと信号を待って目的(?)に向かって渡ろうとする。たまに訪れるマンションに囲われたY公園にさしかかった。ここは子供たちが良くボール遊びをしているせいか、きちんと芝生が刈りこまれているせいか、ハルはあまり好みではなさそうである。どちらかというと、静かで、余り手入れが行き届いていない茂みの方が得意ではある。

それでもクンクンとにおいをかぎながらストレスを発散させている。見知らぬブルドッグに吠えられたり、大きなスパニエルにほおずりされたりして、結構楽しそうだ。あちこちハルに引っ張られながら帰路に着いたとき、歩行計は一万歩を超えていた。こちらも少々疲れたが、ハルも満足したようである。

30年前の竣工時以来、隣のビルで隠れていたわが作品の幻のファサードが、隣家の解体で姿を現しました。しばらくするとまた隠れてしまいます。福岡市都市景観賞、日本建築家協会25年賞の受賞作品でした。

安易な解決方法

折角の散歩道がダメになってしまった。開放一、二か月余りで、Sマンション群の間を抜ける歩道の入り口に看板が立ったのだ。「ここは私有地です。以下ご遠慮ください。と、犬の散歩、ポイ捨てタバコ、スケートボードの禁止のマーク」。開通後も、通りにくそうなので余り利用はしていなかったが、くねくね曲がり、ステップもある歩道橋を人の通り抜けだけならば意味がなかろう。Sマンション計画の一棟目以外の近隣工事説明会は、我が家は直接の隣地ではないので案内が来なかった。したがい、住区の住民の通り抜け利用など、どういう打ち合わせがあったかは定かではない。ただマンションの住人から人づてに散歩道が出来るということを聞いていたのだ。マンションの住人からの要望なのか、通行人のマナーなのか、変更の理由はわからないが、当市でも指折りの住宅地域といわれるこのH地区でもこれぐらいの行動方法しかないのであろうか。ハルを初め愛犬家のためにも、もっといろいろな解決策があるだろう。

いずれにせよ、看板を立てて拒絶するだけでは、余りにも安易な解決方法とは言えないだろうか。コミュニティ・アーキテクトとしては、何らかの方法を探らねばと思い、当時の工事説明会担当者に連絡を試みたが、つながらなかった。このままでは、歩道沿いの道端の春の花は見られないかも。

写真

自販機

いつもの朝早い時間の散歩を少し遅く出た。ハルはもうきちんと座って出掛けるのを待っている。明け方の世の中の動きはすでに始まっていた。通りがかりの歩道の自販機の前で、作業員の青年が自販機に新たに詰替えをやっている光景に出くわした。六,七箱のボックスを開け、缶やボトルをてきぱきと詰替えている。時間との勝負のようにも見えるくらいすばやいスピードだ。そして、空き缶だけを歩道沿いに止めたトラックの天井部を開け、放り込んでいる。後で数えてみると、一つの自販機だけで三十六もの種類の飲料缶やペットボトルが配置されていた。利用するとき、間違わないで指定した缶が出てくるのもすごいが、みんな彼らのおかげである。そういえば、五十年前ニューヨークに暮らしていた時、スーパーでは一、二種類のタオルが売られており、必要に応じて短くカットしたりして使い分けていたのだが、当時でも里帰りした日本では、タオルが手拭用、キッチン用、入浴用等と細かく分かれていてびっくりしたことがある。便利なようだが、かえって応用力がつかなくなるのではないかと危惧したことを思い出した。もちろん、便利か、不便か、自販機なるものは一つもなかった。

朝のいつもの一キロメートル弱の散歩ルート沿いだけでも四か所の自販機置き場がある。散歩の帰り道、大きな車の音がしたのでふと後ろを振り返ると、先程のトラックが高齢者マンションに入っていくではないか。まさか、この施設に・・・。でも今の老人は・・・。現代では、コンビニと同様、町の風景の一つである。もちろん、コンビニや交番のそばにはなかったけれども。

樹木のぬくもり

寒空の中の木々の姿は、葉をおい茂らせた季節の姿と変わり、躯体をはっきり見せる。幹から枝へほっそりとすっきりしたもの、見事に均整がとれてうっとりするもの、曲がりくねってよじれた形のもの、いろいろであり、木の性格をよく表わしていると思う。冬でも多少葉をつけている常緑樹と違い、落葉樹は全くの裸である。寒風の中で枝を揺らせながら立ちすくむのを見れば、凍えるのではないかと思い、しとしとと降る雨の下の木は冷たくないのかなといとおしくも思える。木々たちは、本当はどうかなと手で触ってみた。表面上はざらざらと見える幹も、肌触りは柔らかく温かみを感じるのだ。「どの木でもそうなのかな」と、公園や通りのあちこちに植えられてある太い幹や細い木などに、立ち止まって触ってみた。いつもの散歩とは逆に、ハルが今日は自分に付き合ってじっと待っていてくれている。表面が温かいのは、中に水分を含んでいるためであろうか、風に擦られるのかごつごつと乙面に見える幹の皮の表面は意外と滑らかで、外部の表情から感じ取れるものとはずいぶん違うようだ。こうやって、冬を越し、春を迎えるのであろう。傍に立つ無愛想なコンクリートの電柱や、信号灯の鉄柱の冷たさとは大違いである。